織田信長について
織田信長について
略歴
1534年 (天文3年)
尾張守護代の三奉行の一人、織田信秀の嫡男として生まれる。
幼名は吉法師。 那古野城を居城とした。
幼少から奇行が目立ち、「うつけ者」と謗られるが、尾張織田家の当主となると将才を発揮する。
国内の内紛や、謀反を次々と鎮圧。
1546年 (天文15年)
元服し「信長」と名乗る。
48年、美濃の梟雄、斎藤道三の娘と結婚。事実上、道三と父信秀の同盟が成立する。
1551年(天分20年)
父信秀、病死。54年、清須城に移る。
1554年(弘治元年)
清洲城を奪い尾張半国を統一したが、56年、道三の子、義竜と戦い敗北。
1559年 (永禄3年)
もう一人の尾張守護代家の岩倉織田氏を滅ぼし、尾張を統一し、
翌年、「桶狭間の戦」にて、京都に向かう今川義元を討取る。
三河の徳川家康と同盟し、この年または翌年、清洲から小牧へと本拠を移す。
1567年 (永禄10年)
美濃の斎藤龍興を追放し、城下の井ノ口を岐阜と改称し、本拠を移す。
この頃から「天下布武」という印章を使い始め、天下統一の意志を表す。
1568年 (永禄11年)
足利義昭を擁して将軍職につかせ、事実上天下を握る。
しかし、実質的な権力を握る信長と、義昭との関係は徐々に悪化する。
1572年(栄禄15年)
武田信玄が上洛の軍を興す。
三方原の戦で織田信長、徳川家康連合軍は完敗したが、ほどなく信玄が病死したため、武田軍は甲斐に引き返す。
1573年(天正元年)
近江、小谷城を堕とし、浅井氏を滅ぼし、更に越前一乗谷の朝倉氏も滅ぼす。
また槙島城に兵を挙げた義昭を追放して、室町幕府を滅ぼす。
1575年(天正3年)
「長篠の戦」にて、世界初の鉄砲連続射撃戦法により、武田勝頼の騎馬軍を三河長篠で破る。
1576年(天正4年)
近江安土に築城。
織田家の家督と岐阜城は、長男の信忠に譲る。
1580年(天正8年)
石山本願寺と講和、石山から顕如を退去させ、11年間の石山戦争を終焉させる。
1582年(天正10年)
3月、徳川家康と共に武田領国へ侵攻、甲斐天目山の田野に武田勝頼を滅ぼす。
5月、三男の神戸信孝に四国遠征を命令。
6月、中国地方の毛利氏征伐に向かう途中に寄宿した京都本能寺で、家臣の明智光秀の急襲により自害。享年49歳
嫡男、織田信忠も二条御所で自害。